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茨の森 2
「過去」
小日向かなでとの邂逅から数日。冥加は彼女の存在を意識しながらも目に留めないようにして心の平穏を保っていた。7年前のあの時から一度たりとも忘れたことが無かったのだ。その相手がすぐ近くにいることを意識しない方が難しい。冥加は小日向がいるものとして、極力彼女との関わりを持たないよう注意を払った。
冥加の努力が功を奏したのかそうでないのかはわからないが、小日向を横浜天音学園の校舎で見かけることはほとんど無かった。系列校とは言っても所詮は知り合いも誰もいない別の学校なのだ、練習をするには居心地が悪いのだろう。その割には他の函館天音の生徒は我が物顔をして校舎内で涼んでいるようだったが、冥加は呆れるだけで咎めはしなかった。
だから今後も校舎内で小日向と会うことはほぼ無いだろうと高を括っていたのだが、屋上庭園に入った瞬間、他の生徒と色違いの黒い制服が目に映り冥加は眉を寄せた。小日向かなでがそこにいたのだ。小日向は冥加に気づくことなく、ぼんやりと薔薇を見つめている。
回れ右をして帰ろうかと冥加が立ち止まっていると、小日向が薔薇に手を伸ばすのが見えた。あの女は薔薇に棘があることを知らないのか。苛立ちを抑えることができず、冥加は小日向に近づいた。
「何をしている」
小日向は伸ばしていた手を止め、冥加の方を向いた。
「あ、こんにちは」
驚きながらも彼女は挨拶を返した。
「何をしているのかと聞いたんだ」
「え、えっと、すごく綺麗な薔薇だなと思って」
小日向が手を伸ばしていた薔薇に目をやる。黒味のかかった、色の濃い赤薔薇だ。
「そのまま触れば血濡れになる」
「あ、そうですよね。危ないですよね」
慌てて手を引っ込めた小日向に対し更に不満が募り、冥加は小言を言わずにはいられなかった。
「ヴァイオリニストとしての自覚が足りないんじゃないか」
薔薇を見ていた小日向が弾かれたように冥加に顔を向けた。唐突にそのはっきりとした瞳に見つめられ、冥加はたじろぐ。
「…なんだ」
「そういえば、冥加さんは私のことを知っているんですよね」
すべてを飲み込んでしまいそうな瞳の黒から、目を離すことができない。
「教えてほしいんです。私について知ってること、何でもいいんです」
一旦は引き上げていた胸のざわつきが、脆弱な門を破りここぞとばかりに侵攻していく。朝も昼も夜も頭にこびりついて消えない呪いとも言うべきあの7年前の出来事。それを、この女は露ほども覚えていないというのか。先日再会した時から薄々察してはいたが、知らぬ間に己の手は拳の形を取り震えていた。
「私、函館天音に行く前の記憶が全くないんです」
おかしいですよね、と小日向は自虐するように笑った。
「本当に何も覚えていないのか」
「…はい。自分の名前はわかるんですけど、函館に行く前はどこにいたのか、親のことも、友達のことも全然わからなくて」
童話のような記憶喪失に、冥加は耳を疑った。だが小日向の様子はとても嘘を言っているようには見えない。
「俺を見ても、何も思い出せないか」
「すみません」
思い出せないのなら、小日向にとって自分の存在はその程度のものなのだろう。記憶喪失というと事情がまた違うのかもしれないが、そんなことはもうどうでも良かった。この女の記憶に自分はいない。あの地獄のような仕打ちも、彼女にとっては道端に転がる石を蹴ることと同じ些末な行為であったのだ。その行為に憎悪や復讐を抱いた自分が、滑稽でしかたない。
「俺は、忘れたことなどなかった。あの絶望の日から、何度貴様を夢に見たかわからない」
突然向けられた呪詛のような言葉に、小日向の目に戸惑いの色が浮かんだ。困惑しているその目は揺れながらも、冥加から逸らされることはない。
「教えてなどやるものか」
そう言い捨てて、冥加は屋上庭園から去った。すみませんと言った彼女の言葉と、惑いながらも真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が、またしても呪いのように彼の頭に焼き付いた。
黒っぽい茶色っぽい色をどう表現したものか
冥加ルートの小日向さんの芯の強さはすごいですよね
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